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長谷川町子の母親は天然だった?女家族を支えた決断と武勇伝の数々

Machiko Hasegawa's mother is natural?

国民的アニメ『サザエさん』の作者である長谷川町子さんですが、母親はかなり変わった人だったようです。

また長谷川町子さんは、父親を若くして亡くしており、女家族の中で、育っています。

今回の記事では、長谷川町子さんの母親や女家族で育った環境に関してまとめています。

長谷川町子の母親は天然だった?

長谷川町子さんのお母さんは、今の言葉で言うところのかなり天然だったようです。

おもしろエピソードがいくつかあるので、紹介しましょう。

①知らない男性にキス

長谷川町子さんが、お母さんと一緒に山口県の萩に旅行に行ったときのことです。

お酒に強くない長谷川親子ですが、この日はビールを飲みながらおしゃべりを楽しんだそうです。

就寝前、お母さんは、長谷川町子さんにおやすみのキスをし、それからしばらくしてトイレに立ちました。

しかし、お母さんは一向に戻ってこず、長谷川町子さんが心配していると、隣の部屋から男性の怒鳴り声が!

どうやらお母さん、部屋を間違えたらしく、眠っている男性におやすみのキスをしたようです。

ちなみに、このお部屋は新婚夫婦だったのだとか。

良い大人になった娘さんにキスをするという時点で、お母さん、ちょっぴり変わり者ですが、酔っているとはいえ、他人の男性と間違えるのは、天然を通り越してヤバい気がします。(笑)

②理髪店はハゲる?記憶力がない?

長谷川町子さんが子供の頃、お母さんは「理髪店に行くとハゲになる」という独断と偏見を持っていたようで、家族のヘアカットはすべてお母さんがしていたそうです。

また、自分が以前に買ったぬいぐるみの存在を忘れていて、同じぬいぐるみをプレゼントされても全く気が付いていないこともあったのだとか。

また、空いていれば男性用トイレにもズカズカ入っていくというエピソードもありました。

女性用のトイレは混雑しやすく、男性用トイレが空いてることは多いですが、なかなかの度胸ですよね。

③海外旅行で…

イスラエルの遺跡で感激のあまり牧師さんを差し置いて「天にまします神よ 一同に代わりまして…」と司祭をやり始めたことがあるそうです。

また、パリのホテルで「朝ドラを見る」と言ってテレビを点けたこともあるのだとか。

破天荒なエピソードの数々は想像の斜め上を行っていますね。

かなりクセの強いお母さん、楽しそうではありますが、令和の時代にはそぐわないかもしれません。(笑)

長谷川町子の母親の決断

お母さんはご主人を亡くされた後、娘さんたちのために一念発起します。

その時、娘さんたちは8歳、14歳、16歳でした。

ちなみに長谷川町子さんは中間子です。

本当に女性ばかりの女家族なんですね。

お母さんは、娘さんたちの才能が東京で花開くのを願って、みんなで上京します。

「田河水泡の弟子になりたい」と言った長谷川町子さんのために、お母さんとお姉さんは奔走し、なんと弟子入りの夢を叶えました。

田河水泡さんは、猫が主人公の人気漫画『のらくろ』の作者ですね。

そして、弟子入りから1年後には、長谷川町子さんは、『少女倶楽部』に『狸の面』を発表して漫画家デビューを果たしていますからすごいですよね。

さらに、長谷川町子さんだけでなく、長女の毬子さんもお母さんの後押しのおかげで、洋画の大家・藤島武二さんに弟子入りの夢を叶えています。

トリッキーなお母さんではありますが、娘さんたちの才能を引きだしたのは、間違いなくお母さんであり、娘さんたちにとっては、気さくで頼りになるお母さんだったんだろうなと思います。

長谷川町子の作品や経歴

長谷川町子さんのプロフィールと作品や経歴を紹介します。

本 名  長谷川 町子(はせがわ まちこ)

生 誕  1920年(大正9年)1月30日
死 没  1992年5月27日(72歳没)
出身地  佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市)
職 業  漫画家
称 号  紫綬褒章(1982年)、勲四等宝冠章(1990年)、国民栄誉賞(1992年)
活動期間 1935年 - 1987年
ジャンル 4コマ漫画・ギャグ漫画・家族漫画・風刺漫画


長谷川町子さんは他にも数多くの漫画を描いています。有名な漫画はこちら。

代表作  『サザエさん』
     『いじわるばあさん』
     『エプロンおばさん』

受賞歴  1962年:第8回文藝春秋漫画賞
     1988年:第4回東京都文化賞
     1991年:第20回日本漫画家協会賞・文部大臣賞
     2020年:第24回手塚治虫文化賞・特別賞

長谷川 町子さんは、なんと日本初の女性プロ漫画家なんです。

上京した長谷川町子さんは高校卒業と同時に田河水泡さんの内弟子になったのですが、1944年には、疎開のため、ご家族で福岡に戻って来られます。

長谷川町子さんは福岡では西日本新聞社で働いていました。

しかし、1945年の終戦の翌日には、退社されていますので、やはり漫画家以外の仕事には興味がなかったんだと思われます。

そして、1946年、長谷川町子さんは、夕刊フクニチで、連続漫画『サザエさん』を掲載することになります。

長谷川町子さん一家は、再び上京することになったので、夕刊フクニチでの連載は、一旦終了になったのですが、読者からの要望が強く、すぐに夕刊フクニチと北海道と名古屋、3つの新聞に掲載されるようになりました。

そして1949年からは朝日新聞の夕刊に掲載されるようになります。

『サザエさん』は、戦後間もない頃からあった作品なのかと思うと感慨深いですね。

長谷川町子の母親は天然だった?女家族を支えた決断と武勇伝の数々まとめ

今回の記事では、天然だったと言われている長谷川町子さんの母親の女家族を支えた決断と武勇伝の数々をまとめました。

長谷川町子さんのお母さんは、とってもスタミナのある方で、女性がまだまだ保守的だった時代に、グングン娘さんたちの人生を切り開いていったことがわかりました。

長谷川町子さんが、偉大な漫画家に育ったのは、お母さんの娘だったからかもしれませんね。

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