アーティスト

寺内タケシがエレキギターを発明!エレキの神様の足跡と生きた証し

Takeshi Terauchi invents electric guitar

エレキの神様と言われた寺内タケシさんは世界で初めてエレキギターを発明した方です。

エレキギター禁止令などの厳しい洗礼を受けたり、過密スケジュールで病気になり療養したりと順風満帆でなく波乱万丈な人生を歩んできたエレキギターの神様の壮絶な生きざまを見た。

寺内タケシ・エレキの神様の略歴

寺内タケシさんの本名は寺内武です。

寺内 タケシ(てらうちたけし)

本名:寺内 武
1939年1月17日生まれ

2021年6月18日82歳で逝去。

茨城県土浦市出身。
ニックネームは「テリー」「寺さん」

ギタリスト、作曲家、編曲家、音楽プロダクション経営者、実業家。


寺内タケシさんは、1962年(23歳ころ)から2021年まで約59年間ギタリストとして活動します。

父親は手広く事業を展開している実業家。
母は小唄や三味線の家元であり、幼い頃から三味線の音色を聞いて育ちます。

家族は、父母と兄と弟がいたようです。

寺内タケシが、1940年代にはじめてエレキギターを創ります。

寺内タケシ・エレキギターを発明

5歳のとき1944年、兄が出征したので、兄が持っていたクラシックギターを手に入れます。


母親の三味線と寺内のギターとでセッションをしたとき母親の見事なばちさばきに太刀打ちできなかったことから、ギターの音量を上げるためにどうすればよいか試行錯誤したうえ、
夜中に自宅の電話機3台のコイルをこっそりと抜き電気ギターを作成します。


ところがこのギターは1年余りでダメになります。
そこで、父親が経営していた工場にある木材やマイクを使って、自分で設計したギターのボディとネックとマイクを取り付け、世界で初めてエレキギターを創ります。

寺内は小学校3年9歳の時はじめて勘当されたのを皮切りに合計10度、父親に勘当されています。

父親は、寺内がギターにハマるのを快く思っていなかったのです。


1949年10歳のころにPAを自作します。
※PAは、超簡単に言うと、音楽を拡声して聴衆に届ける装置といったところでしょうか。

当時、特許とか商標権?なるものを取得していないので、エレキギターの創始者が誰かいまだに定かにされていませんが、寺内タケシが世界で初めて作ったと言えるのではないでしょうか。

寺内タケシの足跡と生きた証し

中学卒業して高校に行く頃成績が悪かったため入れる高校がないので、父親が寺内のために茨城県立土浦第三高校を設立し、その高校に入ります。


寺内タケシは高校に入学すると、マンドリンクラブを作ります。そして寺内が特訓し、全国楽器コンテストに毎年出場すると、3年連続全国優勝します。

高校卒業後、明治大学に入学していますが、1週間で退学させられてしまいます。

大学時代


もともと明治大学に入れるほどの成績ではなかったが、たつての願いで古賀政男から誘われ、彼の口利きで入りましたが、父親は事業を継いでもらいたかったので、退学届けを出し、父親のコネで関東学院大学工学部電気科に入学させます。


関東学院大学に入学時、まじめに勉強することを約束させられ、入学祝としてお手伝いさん付きで何もかもそろった一軒家をプレゼントされます。


しかし、父親の期待とは裏腹に学業より、学生の中からバンドメンバーを募ってウエスタンバンドを結成します。


そして、バンドメンバーに例のごとく特訓を重ね、横浜のクラブや横須賀の米軍基地でアルバイトで演奏できるまでになります。


関東学院大学はミッション系の大学であったので、礼拝堂がありました。
礼拝堂で酒盛りをしながら煙草を吸ったりしているところを牧師先生に見つかり停学処分になります。


停学で大学に行けなくなった寺内は山下公園にあった「ブルースカイ」というクラブでドラム担当としてアルバイトに精を出します。
父親に見つからないように変装してアルバイトしていたのですが、見つかってしまい勘当されます。
一軒家に帰ったところ、家が跡形もなくなくなっていたといいます。
更地になっていたのです。


住む家もなくなったので、JR桜木町駅のベンチで寝るホームレス生活をします。


横須賀でのアルバイトは続けていて、そこで知り合った米軍将校が持っていたフェンダーギターを100ドルで譲ってくれるというので、朝から晩まで日雇い労働やバンドのアルバイトをしながら約2か月間でフェンダーギターを手に入れます。


横須賀のクラブでギターをソロ演奏するようになり、「テリー」と呼ばれギターが上手いと評判になります。

それからミッキー・カーチスと出会いロカビリー・バンド「クレージー・ウエスト」に参加します。

寺内タケシが所属したバンド

寺内タケシは数々のグループに入りまた次へと、好むと好まざるとにかかわらず渡り歩いてきました。

ホンシュウカウボーイ
クレージーウエスト
マウンテン・プレイボーイズ
ブルージーンズ(一期)
寺内タケシとバニーズ
寺内タケシとブルージーンズ(二期)
寺内タケシとブルージーンズ(三期)

寺内タケシは大学生時代からバンドに所属し演奏活動をしてきました。ホンシュウカウボーイです。

ホンシュウカウボーイ

オーディションに応募して外国人ばかりの中、日本人で一人だけ合格します。このグループでは寺内がメンバーに演奏指導を行うようになります。

クレージーウエスト

ミッキー・カーチスが率いるバンド。寺内タケシが加入した時は解散間近のグループでしたから、全員が脱退します。

寺内タケシがメンバーをかき集めて新しいクレージーウエストを創りますが、コンサート前にメンバーが入院し、代わりにいかりや長介さんが入ってきます。

マウンテン・プレイボーイズ

ジミー時田が青山学院大学3年生の時に結成したバンドです。バンド活動は1957年~1967年の10年間続いています。

が、寺内タケシは突然首を宣告されます。それは、寺内に新しいバンドを創らせるための作戦でした。

寺内タケシの加入は1960年~1961年の間でした。

※ジミー時田は、カントリーミュージックの歌手です。
1967年9月に単身渡米し、クラブハウスなどを精力的に回ります。お酒が好きで体調を崩して2年後に帰国後は目立った活動ができないで、2000年3月10日東京都杉並区で逝去しています。63歳でした。

寺内タケシとブルージーンズ(一期)

1962年8月に寺内タケシが結成(23歳頃のこと)。

公演中に起きた舞台からの転落事故をきっかけに、エレキ一本のバンドへ転身します。

1964年ブルージーンズ結成と目にすることがありますが、これはこのことかと思います。

1964年新宿厚生年金会館で初のブルージーンズコンサートが開催されます。この時、ザ・ベンチャーズとアストロノウツ、それにザ・スパイダースが共演しています。

ここから空前のエレキブームが始まりました。

1965年エレキ元年。

1965年には日本公演中のベンチャーズと共演します。

この間、1965年10月足利市から全国に、エレキ追放運動がおこります。

1966年にはベンチャーズのドンウィルソンの息子が落馬事故で死亡し、その際、帰国したドンに変わって寺内がギターを演奏しています。

寺内の名は海外にも知れ渡り、チェット・アトキンスとレス・ポールと共に世界三大ギタリストに選ばれています。

売れっ子になった寺内タケシは、超過密スケジュールで過労が原因で倒れ病気療養期間ができました。その期間中にブルージーンズを脱退し、GS(グループサウンズ)バニーズを結成します。

寺内タケシとバニーズ

1966年結成。1971年解散。

寺内タケシは音楽の方向性の違いから途中離脱しています。

代表曲は「太陽の花」「悪魔のベビー」など

1967年、クラシック音楽「運命」をエレキで楽曲した「レッツゴー運命」を完成させ、レコード大賞編曲賞を受賞しています。

寺内タケシはバンドメンバーを変えるたびにスパルタでギターを特訓し教育します。これは高校時代にマンドリンクラブを作った時からの彼のやり方です。

寺内タケシとブルージーンズ(二期)

1969年7月から1970年9月まで活動。メンバーは11名いました。

GS時代が終焉を迎える。

1970年頃には完全にGSブームが終焉を迎えます。1971年にはほとんどのグループサウンズが解散したり自然消滅しています。

寺内タケシとブルージーンズ(第三期) 

1970年10月から1976年。

メンバーを一新して再起を図ります。

寺内タケシのすべてが詰まったCD発売されてます。

「津軽じょんがら節」「レッツゴー運命」も収録されています^^

寺内タケシ&ブルージーンズCD

赤字コンサート

エレキは不良を生む温床だといわれ、エレキ禁止令を出されます。
1965年「エレキギター禁止令」を最初に発したのが栃木県足利市教育委員会。これが全国に瞬く間に広がったのです。

ことの発端は、1965年8月、足利市内の寺院で開かれた野外フェスティバルで、未成年の飲酒や喫煙など不適切な問題が発覚したことから始まります。

同年10月、足利市小中学校の校長会は、エレキギターの購入やバンドの結成、演奏会の企画や参加、テレビのエレキ番組視聴などを禁じることを申し合わせ、市内の高校にも同様の自粛を要請した。足利市の禁止令は大きく報道され、全国に波及します。

新聞報道から抜粋


寺内タケシさんはエレキ批判の風潮を打破することや、ただエレキのすばらしさを伝えるためだけに

全国の高校を回って演奏する「ハイスクール・コンサート」を、1974年から2017年まで約43年間(35歳から78歳ころまで)、通算1500回以上、ライフワークとして続けました。

機材運搬費やメンバーの旅費等、実質大赤字コンサートを実に1500回以上続けます。

はじめは何百校と訪ねますがどの高校にも受け付けてもらえず、寺内の母校の茨城県立土浦第三高校を訪ねると温かく迎えられ、ここが皮切りとなり以後1500校のコンサートへとつながります。

一番最初にコンサートを開いたのは母校の茨城県立土浦第三高校でしたが、公式にはハイスクール・コンサート第1回開催は、茨城県総和工業高校となっています。

1976年にはソ連在住の白血病の少女エリーナ(8歳)に生演奏を聴かせるため、3千万円の赤字を覚悟でソ連ツアーを決行します。

この少女から再三にわたって手紙をいただき、果てはその父親からも手紙が届いたので、ソ連でのコンサートを決意したのです。

当然、ソ連は共産圏でコンサート費など小額であったので初めから赤字覚悟での強硬ツアーでしたが、ツアー自体は盛況で大成功でした。

その後、1981年と1984年にもソ連ツアーを開催しています。

表彰と受賞

ソ連ツアーでソ連と日本との友好に寄与したとして、その功績が認められ

1981年12月日本国際連合協会から感謝状と国連平和賞を受賞。

1984年には文化功労賞と音楽功労賞を受賞。

エレキギターの優れた演奏ならびに青少年への情操教育に貢献したことが認められ、

2004年12月文化庁の長官表彰を受けます。

1985年の茨城県つくば科学万博では総合プロデューサーに請われた時は、報酬を辞退して働き、

1995年1月17日の阪神淡路大震災を教訓にして災害対策車なる「非常災害用音響本部車」を創造するなど。(開発費用として2億5千万円を投資したとのことです)

数々の社会貢献活動が認められ

2008年緑綬褒章を受章。

寺内タケシがエレキギターを発明!エレキの神様の足跡と生きた証しまとめ

この記事で参考にしたブログはこちら:https://plaza.rakuten.co.jp/tmatsumoto/2034/

寺内タケシさんは横浜市三春台に住んでいたようですね。
寺内タケシの病気遍歴と死亡原因や経歴やプロフィールなど

ご冥福をお祈りいたします。

寺内タケシのスーパーベスト曲集!

寺内タケシ&ブルージーンズCD

こんな記事もあります

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。